2013年03月08日

幾つもの物語が「博多の明太子」を生み、育てた…。『明太子をつくった男〜ふくや創業者・川原俊夫の人生と経営』を読んで

明太子をつくった男: ふくや創業者・川原俊夫の人生と経営 [単行本] / 川原 健 (著); ...について。
明太子をつくった男: ふくや創業者・川原俊夫の人生と経営 [単行本] / 川原 健 (著); 海鳥社 (刊)

愛される商品には物語がある。消費者である僕らは、商品と一緒にその商品をめぐる物語も購入する。ここでいう物語とは、「商品開発までの感動の秘話」といった類の安いストーリーではない。物語とは「モノ」と「カタリ」との関係の総体を指す。「カタリ」は生産者であったり、消費者であったり、周囲の人達だったりする。感動や悲劇はそこに付随する後づけの読後感にすぎない。「モノ」と「カタリ」の関係は、しばしば恣意的で個的な選択や判断の連続によって積み重なっていく。それは個人の物語に限らない。グループの、会社の、あるいは地域の物語として、厚みを伴って僕らに届く。愛される商品には必ずそうした物語があるはずだ。物語が激動である必要もない。カタリによって選ばれた言葉が、丁寧に細部を描写する。それだけでいいのだと思う。

 本書の読後の感想は率直に「そうだったのか、川原俊夫さん、ありがとう」だった。福岡では有名な「味の明太子」の「ふくや」が、創業者・川原俊夫の生誕100年を記念した企画として、本書は編まれている。著者は川原俊夫氏の次男で、社長も歴任し現在は「ふくや」の取締役相談役である。したがって社史と創業者の個人史という側面は持っている。しかしそれは、よくある創業者礼賛や経営術指南の企業本とは一線を画している。なぜか? 戦後から起ち上がる中洲の市場や周辺の様子が、著者の幼少から青年期までの記憶と呼応しながら、活き活きと描写されているからであろう。博多を知らない人でも、そうした風景が見えてくるのではないかと思う。しかし、それは、「かつての元気だった日本を思い出す」といった類の昭和のノスタルジーとも違うのだ。個人史というのは面白い。僕も市民ビデオに長く関わっていたので、個人史が描かれる映像をたくさん目にしてきたが、そこには、作者が大切にしたいと思った細部があふれるのだ。この本に通底しているのも、そうした愛情と感謝と思い出にあふれた、家族だけが感じることのできる細部なのだ。誰の人生でも映画になりうる。そして、劇的ではなくとも、つまらない人生はどこにもないのだと思う。

 本書は大きく分けて3つのパートで構成されている。第1章「明太子づくりへの執念」は朝鮮半島の釜山で出会った明太子を、博多・中洲で「味の明太子」として誕生させるまでの経緯である。この章の冒頭「博多土産の定番 辛子明太子」は序章にあたり、現在の博多の明太子業界の状況と「ふくや」の新しい取り組みが、短く紹介されている。この冒頭に出てくる、スケトウダラの魚卵の色味がひとつひとつ微妙に違う、という話も面白い。「白系は卵のお母さんであるスケトウダラがイカをエサにしていたから。赤っぽいのはエビやカニが主食だったから」なる説が社内でまことしやかに語られている、という。本当かどうかはさておいて、こうした小さな物語が、明太子の魅力に深みを添えていると、僕は思う。この章では戦後の闇市時代から、「ふくや」の創業、そして「明太子」が博多の代表的な土産物になるまでが描かれる。第2章「川原俊夫の遺言」は「ふくや」を起業し、明太子業界のリーダーへと成長させていく過程が描かれる。魚卵の安定した仕入れや、低価格の設定、品質管理への厳格さなど、川原俊夫の理念が形となっていく。そして第3章「ふるさとへの恩返し」は川原俊夫が大切にした地域貢献・協働活動が、中洲の再開発や博多地区の都市計画、祭りやさまざまなイベンを通じて、ひとつずつ実を結んでいく様子と、地域の発展に執着した川原俊夫の人物像が描かれている。
 
 東京明太子倶楽部の代表である僕は、「明太子」のルーツが朝鮮半島で、「明太」がタラを意味し「ミョンテ」と呼ばれていることは知っていた。「ミョンテ」の「子」だから、「明太子」だと書いてあった。それもおそらく以前に調べた「ふくやのHP」でみたのだと思う。椎名誠さんの本にも記述があったと記憶している。倶楽部のメンバーが韓国に旅行した時に持ち帰った「明太子」は、土産物として「明太子のルーツ」と紹介されていて、味付けが博多から逆輸入されたような日本向けのパッケージだった。そういうバラバラだった知識が、この第1章「明太子づくりへの執念」を読むことでスッキリとつながった。

 博多の明太子は奇跡の産物である。その理由のひとつは、川原俊夫が沖縄で終戦を迎えたことである。大正2年(1913年)1月25日に朝鮮半島の釜山市で生まれた俊夫は、幼少期をこの地で過ごし、そこで、「メンタイ」と出会っている。その頃の朝鮮半島には2万5千人を超える日本人が住んでいたという。「メンタイ」は乾物屋で売られていて、高価なものではなかったらしい。福岡市と釜山市は地理的にもとても近い。20年前からはJR九州の高速船が運行し、約3時間の距離である。福岡、釜山の双方の観光客やビジネスマンが行き来している。スケトウダラと言えば、北海道や日本海、あるいは海外では北方のベーリング海といった印象が強いが、朝鮮半島東岸部(日本海側)でも水揚げされていたらしい。これまでの疑問のひとつが、なぜ北方で採れるスケトウダラの卵が朝鮮半島で加工されていたか、ということだったのだが、大量に水揚げされていたことで、スッキリとつながった。魚卵を辛子につけて保存が効くようにした惣菜だったのだろう。高価でなかったという記述があるが、タラの魚卵をどうにかして食べようという文化は、欧米には少ないようだ。朝鮮半島でも、どちらかと言えば「もったいないからどうにかして食べられないか」といった動機から生まれたものではなかったのかと思う。「明太」の卵「明卵」といい、塩辛類を「ジョ」と呼ぶそうで、「ジョ」に漬けた「明卵」で「明卵ジョ」というのが、韓国での呼び名だそうだ。韓国国内では、現在でもニンニクの味が効いたものが好まれているらしい。

 釜山で中学を卒業した俊夫が、「南満州電気株式会社」に入社し、その後、奉天、新京、平壌へと転属し、招集されて釜山に戻る。釜山ではその頃、俊夫の兄が食料品店「富久屋(ふくや)」を切り盛りしていたそうだ。「ふくや」はこの店名をついだらしい。釜山から沖縄に配属された俊夫は、宮古島のとなり、伊良部島の防衛が任務だった。周知の通り、沖縄戦を経て復員した兵士は少なく、米軍の上陸ルートが少しでも変わっていたら、川原俊夫も戦死していたことだろう。そうなれば「ふくや」も「明太子」も生まれていなかっただろう。あるいは、満州からの引揚船に俊夫の妻・千鶴子と次男の健が無事に乗ることができなかったら、その後の「明太子」をめぐる物語も形を変えていただろう。復員した俊夫は兄とともに、焼け野原だった福岡の闇市で駄菓子を打って商才を発揮したという。福岡市は昭和23年4月に中洲市場の開発に着手し、新規入居者を募集した。昭和23年10月5日「ふくや」は創業し、当初は乾物、豆類、調味料などを売っていたと記してある。店の看板となる商品を考えるうちに、釜山で食べた「メンタイ」を商品化することになる。昭和24年1月10日に初めて「明太子」が店頭に並んだそうだ。この頃の描写は著者の少年期の記憶を元に、中洲市場の様子や、創業から間もない「ふくや」の様子、父・俊夫の商売の仕方や人付き合いなどが、いきいきと描かれている。「味の明太子」の漬けダレや唐辛子調味料の配合が決まるまでの試行錯誤など、とても読み応えがある。

 現在「ふくや」では、俊夫の生誕100周年の記念事業として、当時の味を再現した「味の明太子 復刻」を発売している。昔の味を再現する過程の試みがまた、面白い。現在、明太子の原料はアラスカ産やロシア産が主で、近海ものは漁獲量が激減していて、値も高い。この復刻版では「近海子」と呼ばれる国内産のタラコを使い、生のまま塩打ちして材料としているそうだ。博多の明太子業界でも、国産にこだわるメーカーがあるが、全体にやや小ぶりな印象がある。冷凍物でないタラコは漁獲後に魚が跳ねて体を打ち、胆汁が沁み出して卵嚢の端が緑かかったり、黒ずんだりするらしい。見た目は悪くなるが、魚卵の立ち具合や漬けダレのしみ方が抜群らしい。確かに冷凍の過程をできるだけ省いたものは魚卵の起ち具合がいい。僕らはそれを総合して「魚卵味がいい明太子」と呼んでいる。

 著者は、博多土産としての明太子の普及は、昭和50年の東海道・山陽新幹線の開通が大きな要因だという。僕は昭和37年生まれで、高校までは主に福岡で暮らしていた。東京の大学に行くようになると、帰省の土産に明太子を持って帰った。居酒屋でアルバイトしていたこともあり、そこの店長や板前さんにも、「ふくや」や「福太郎」を持って帰り、どっちの味が好みかと言いながら、アルバイト先での「まかない飯」を楽しんだりした。おそらく著者の言うとおり、輸送時間の短縮化が、普及の大きな要因であろう。

 この項で心を捉えるのは「特許はあえて取らず」の記述である。俊夫の言葉にあるように、ニセモノが出回らないように特許取得を進める周りの者に、「明太子は惣菜、特許は取らん」「味の好みは人それぞれ。安くておいしいなら、どんどん出てきてよか。」「うちのがおいしいと思う人は必ずうちのを買ってくれる。」と聞く耳を持たなかったという。製法も公開したが、それでも調味料と唐辛子の配合は秘密を守ったという。しかし、「味の明太子」のパウダー状唐辛子を協同で開発した会社が、他社とも「ふくや」とは異なる調合で取引をしたいと申し出たら、あっさりとそれを許したという。(p77)現在、「全国辛子めんたいこ食品公正取引協議会」には、116の製造会員がいるという。その発展の源には、「儲かってどうするとか」という川原俊夫の豪快さがあったといってもいいだろう。

 第2章「川原俊夫の遺言」では、俊夫が他界した後を妻・千鶴子が引き継ぎ、昭和55年8月に「株式会社ふくや」として、再出発する経緯が描かれている。俊夫は福岡では有数の高額納税者となってからも、会社の拡大を望まず、卸売もせず、直営店での販売だけにこだわっていた。「「児孫のために美田を買わず」と言う。父は見事なまでに個人財産を残さなかった。」と著者は述懐する。品質管理の徹底と、俊夫の理念を踏まえながら、直営店の拡大、駅や空港への進出、通販の開始など、現在に至る事業の展開が描かれていく。東京のモノレール浜松町駅に直販店舗ができたのが、昭和60年だと書いてある。僕が大学生の頃には、東京でも「ふくや」が購入できるようになった反面、東京で買えるのならば、土産にするのは、福岡でしか買えない別のメーカーにしよう、と思っていた。へそ曲がりな人間は、販路が拡大したり、有名になって普及したりすると「味が落ちた」などと言うものだ。僕自身も正直なところ「ふくや」に土産としての真新しさを感じなくなっていた。しかし、俊夫が言うように明太子は惣菜なのだから、馴染みの味が一番いい。美味しいものが安く買えるのならば、それが川原俊夫の理念であろう。それにしても第2章に描かれる、会社としての「ふくや」の社会貢献には頭が下がる。育児休暇や社員の地域貢献への積極的な姿勢は、そうしたボランティア活動が会社からの有給で行われる申請制度があることで判る。

 第3章「ふるさとへの恩返し」は川原俊夫の「中洲の日蓮さん」としての人柄や、地域との関係が描かれている。僕は「山のぼせ」という言葉が好きだ。「山笠に熱狂的に入れ込む人」のことであるが、博多の山笠だけでなく、全国各地に祭り好きはいる。年に一度の、あるいはそれ以上に感覚の開く地域の祭りに対して、祭りを中心に動いている人達がいる。人生の殆どが祭りの準備であるような人たちだ。これは、祭りそのもの魅力と言うよりは、その地域が祭りを理由に、繋がりを強固にして、一体感を持って行動するからなのだと思う。僕は福岡には長く住んだが、父親が転勤を重ねていたため、地元というものがない。博多の山笠も、どんたくも、いつも見物人のひとりとして観ていた。だから、地域のために地域に根ざして活動をすることに、若干の嫉妬を覚え続けてきた。子供の頃に読んだ漫画『博多っ子純情』にも度々山笠をめぐる物語が登場していた。戦後の復興とともに「祭り」の復活が望まれたのは、地域が活気を取り戻すための大きな中心軸だったからだろう。中洲市場の復興とともに、博多でも「博多祇園山笠」や「どんたく」が復活していく。「山笠」の起源は鎌倉時代からだと言われ、770年の歴史があるという。幾つもの「舁き山」を引き回していくグループを「流」という単位で呼ぶけれど、「中洲流」の創設者の一人がこの川原氏だとは知らなかった。昭和24年に「中洲流」ができたと記されている。「流」という共同体を作ることによって、その地域の一体化を図ろうと思ったのだろう。本書を読み進めていくと、川原俊夫の「山のぼせ」も当然の帰結のように思われる。

 現在の中洲川端地区は、平成8年の「キャナルシティー博多」の開業や、その後の「博多リバレイン」「博多座」「福岡アジア美術館」の開業など、大規模な地域再開発が進行し、街の景観もイメージも随分と変化した。博多川周辺の清掃活動、中洲に掛かる橋のリニューアルなど、現在に至るまでの地道な地域の下支えには、常に川原俊夫がかかわっていたことを知った。

 僕の読後の素直な感想はこうして出てきた。「そうだったのか、川原俊夫さん、ありがとう」。
posted by 明太子 at 16:15| Comment(0) | TrackBack(0) | 明太子研究 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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