2009年07月15日

失われつつある「典型あるいは原点」の美しさを思い出させてくれる「ほづみの辛子明太子」

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 7月の通巻71号で『大航海』が突然の終刊した。熱心な読者ではなかったが、時々はその特集に惹かれて手に取っていた。「歴史・文学・思想」を掲げた総合批評誌が姿を消すことは、こうした硬派な活字媒体が売れないことを直に反映している。雑誌といえば、今や駅で手軽に手に入るフリーペーパーに等しい。「無料」であるということは、そのクオリティーを保証することも、広告的な偏向を避けることもなく、単に情報の集まりであることに無自覚な者には魅力的に映る。「無批判なお得感」は世間に蔓延している。
 『大航海』の終刊号には、三浦雅士の「時代概念の終わり」という一文が、悲しげな怒りと共に巻末にある。小林秀雄の戦後詩あるいは文学史への影響をひとつの「典型」として捉え、時代そのものが自らの虚構を結晶させるためにも「典型」が必要な触媒であったのだという。現在の学生が小林の名を知らぬことは「典型」が無意味になった時代を反映しているのだと。「典型が不必要になったのは、時代概念が不必要になったからだ。時代が長く意味を持ったのは、世界が農業生産に負っていたからだ。」と続ける。「勤勉は価値でなければならなかった。だがいまや誰の目にも、勤勉なものはいっそう貧しく、怠惰なものはいっそう豊かになっているではないか。価値を生むのは労働ではない。差異を見出す敏捷さである。範例となるのは農業ではなくむしろ狩猟なのだ。本ではなく携帯電話なのだ。中枢ではなく端末なのだ。」
 勤勉なものの貧しさが、現在に固有な問題だとは思わない。しかし「正直者がばかをみる」ことが緩やかに蔓延したのは、おそらく80年代から少しずつ失われていった「勤勉への敬意」が、狩猟型の生き方への憧れに取って代わられたためであろう。素早い時代感覚とは、それが単に、誰かよりも早く情報を手にしたに過ぎないこととは気づかず、あるいは、その事の愚かさを集団で隠蔽した成果であったならば、状況を俯瞰する時代概念は、不要と言うより邪魔モノであった。
 「典型」や「原点」は、決して携帯電話の無料サイトで手に入るモノではない。

 こんなことを長々と書いたのには理由がある。東京明太子倶楽部は勤勉な者を正当に評価したいからだ。
 辛子明太子を生産し販売する行為は、言うまでもなく水産業に準拠している。農業ではないにしろ、種を蒔くという行為は魚介類の養殖や畜産にも似ている。こうした一次産業が、いま、勤勉をひとつの価値としていることにもっと注目してもいい。生産者の顔が見える製品作りや、有機農法などの手間のかかる作業、飼料の安全性を商品価値に変えている。多少高額でも、良いものを口にしたいというニーズは増え続ける。もちろんそれが、「貧乏人は安くて危険なモノを食え」という資本主義の悪癖に転化されてはならない。一方でこうした風潮は市場を動かしている。しかし、確実に「勤勉の価値」を評価する兆しは定着へと進んでいる。

 「ほづみの辛子明太子」を口にした時、上記の三浦の言葉を思い出した。「差異を見出す敏捷さ」以上の何かを、この明太子は教えてくれる。例えばJR博多駅の土産物売り場には、驚くほどの種類の明太子がある。メーカーもおそらくここ10年ほどで飛躍的に増えたはずだ。私が子どもだった30数年前には、母親が「ふくや」よりも「福太郎」が美味しいとか、その程度の選択肢だったはずだ。もちろん、私や母親が知らなかっただけで、そのころから明太子を作っていたメーカーもあっただろう。しかし。確実に今より遙かに少なかったはずだ。それらはまさに「差異」を強調している。大きさや量はもちろん、辛さの度合い(一時は激辛も流行った)、柚味、梅味、昆布だし、吟醸仕込み、といったタレの違いを強調している。それはそれで、ひとつの楽しみではあるし、よくぞこのバランスを作り出したと感動することもある。しかし、過剰な差異の創出は、悪くすれば、より刺激の強い味を求める若者舌に迎合しかねない。コンビニに並ぶ哀れなポテトチップスを見よ。若者舌に迎合するから、原形を留めないような無様な味覚を提供することになるのだ。明太子のポテトチップス化だけは、避けなければならない。「典型」や「原点」を比較する為には、正当で繊細な批評がやはり必要なのだ。

 「ほづみの辛子明太子」は島本食品のブランド内ブランドである。島本食品の製品はこれまでにも幾つか取り上げ紹介してきたが、実はその勤勉さにうっすら感動している。国内産のタラコにこだわる為に、魚卵の粒は総じて小さい。これは以前にも指摘したとおり、われわれTMCが重視する「魚卵味」とはすなわち魚卵の粒の大きさを意味しない。その評価基準は味の繊細さとバランス感覚なのだ。粒の大きなものは、大きなものとしてバランスのある味付けがあればそれは面白い。小さく繊細な粒には、より大きな気遣いが必要なのだ。

 この「ほづみ」にはそれがある。辛子というよりは塩気を重視した懐かしい味付けである。昆布を下味に、柚を隠し味程度に配合しているが、全面には感じない。塩気だけではない「何か」という嬉しい発見がある。それは露骨な「何とか味」ではなく、僅かな風味としての昆布であり、柚であるのだ。こうした「風味」に似た繊細な言葉も少しずつ失われていくのかもしれない。
 幾つかの「典型」と「原点」を維持すること。島本食品にはそれを期待したい。

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↑ナチュラルな色合いの「ほづみ」。爽やかな味わいだが、実は塩味、辛み、旨味もしっかりある。



posted by 明太子 at 00:19| Comment(0) | TrackBack(0) | 明太子研究 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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